謙虚だけど自信あり

「不安はいっぱいあるけど、自分を鼓舞してその不安を打ち消そうとする。あるいは実際の自分よりも大きく見せようとする。そして相手の自信をなくさせようとする。」スポーツの世界ではよくある話ですが、私たち人間はすべて、多かれ少なかれこれと同じようなことをしているのではないでしょうか。戦う前に謙虚になる人はあまりいません。(ちなみにマニー・パッキャオはクリスチャンだそうです。彼はむしろに謙虚に試合に臨んでいるように思えます。)

しかし、健全なクリスチャンは、このような基準で人生の戦いに挑みません。(クリスチャンも罪人であり罪ある世の中で生きているので、いつも健全な心をもっているとは限りません。)

私たち人間は、神によって創造された存在として生かされています。神が創造した自然があり空気があるから、私たちは生きていられるのです。命そのものが神によって支えられているのです。この認識があると自然に謙虚になってきます。宇宙を見る時に、宗教を問わず自分がちっぽけな存在である、と誰もが思うかもしれません。

さらに健全なクリスチャンは、自分が罪深い人間であることを知っています。自分の心を見る時に、邪悪な思いがあるのに気づかされるのです。他の人を自分のように愛せていない存在であり、時々、自己中心的でありなんて自分勝手な人間なんだ!と気づかされるのです。学歴など表向きなことに誇れることはあっても、内面に誇れるものはありません。だから謙虚にならざるえないのです。

だけど健全なクリスチャンは、自分が神によって愛されている存在であることも知っているのです。(実際、すべての人間は神によって愛されていますが、それにほとんどの人々は気づかないだけですが。)神の愛は、自分の罪よりも大きなものです。自分のどうしようもない自己中心的な心、悪の心、悪いことと知ってはいても自分を正当化する態度など、施しようのない自分に宿っている罪の心をも神の愛は超えているのです。「罪から離れてわたしの下で勇気と愛によって生きなさい」と神は私たちに言っています。

神を信じキリストを信じる人は、信仰によって自信を持てるのです。パウロという人が、彼が書いた手紙の中で次のように書いています。

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(ピリピの手紙4章13節)

また、ペテロという人はやはり手紙の中で次のように書いています。

だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。(1ペテロ5章6節)

クリスチャンは、この罪ある世の中では不思議な存在です。「謙虚であり自信ある人」だからです。

冒頭で述べたスポーツの世界の「虚勢や威嚇」は、健全なクリスチャンにはありえないことです。相手も神によって愛されている存在だからです。スポーツの戦いがあっても、相手への敬いは忘れない謙虚さをもっているのです。

今日も素晴らしい日でありますように。

 

 

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