向上心の副作用

北海道大学の前身の札幌農学校を創立者であるウィリアム・スミス・クラーク博士は、学校を去る前に「少年よ、大志を抱け」と言ったと伝えられています。しかし、キリスト者であったクラーク博士は、キリストにあって大志を抱くように奨励したのです。

人生を前向きに考え自分自身の能力や知性を高める事はよいことでしょう。しかし、人間の向上心には副作用があります。自己中心という副作用です。そんな私たち人間にキリストは次のように言います。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。(ルカ9章24節ー25節)

キリストの教えは、人間の目からすれば逆転の発想です。自分の命を救うために、あえてキリストのために命を捨てる、命を失いなさいとはどんな意味でしょうか。今まで自分を高めることを中心に行動してきた人が、キリストのために命を失うことなど果たして出来るのでしょうか。

普通、人間は命の中心を自分に起きます。たとえ自己中心的な人でなくても、そうせざる得ないのでしょう。ある意味、そうすることによって他の人との区別が出来るからです。しかし、この考え方を究極的に追っていくと、延長上にある末路は非常に自分勝手な自己中心的な自分です。

しかし、その人生の軸足、中心を自分にはでなくキリストに置いてみたらどうでしょうか。キリストの教えに従い生きていくことにより、自分の命をあえて投げ出すのです。命を投げ出すという意味は、自分の命をキリストに委ねる、任せることです。自分が基準にしていた生き方を捨てて、キリストの教えを基準に物事すべてを判断するのです。

180度、発想の転換が必要です。今まであいまいにしてきた善悪の基準がはっきりしてきます。正しいことを正しいと言うには確固たる基準が必要です。人間が作る基準はその状況状況によってコロコロ変わるのです。(たとえば政治を見れば一目瞭然です。)変わらない普遍の基準、永遠の教えがキリストの教えにはあります。キリストの土台にしっかりと軸足を置いていれば、自分の命を投げ捨てても何も心配することはありません。

実は、キリストに従うことこそ、自分を高める一番の近道なのです。この世では、自分を高めようとして結果的に逆に大変な苦労を抱え込んでしまう人たちがいます。朝から晩まで働いて財産を積み上げて、心に残るものは何でしょうか。この世でキリストに命を捧げることにより、本当の命が与えられ幸せが与えられるのです。

キリストの教えは宝です。大切に使えば必ず素晴らしい実りがあります。

読者の皆様の上に、創造主なる神の大いなる愛が注がれますように。

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