死の現実

死は誰にでも来ます。死後、肉体は死んで魂は生き残る、とほとんどの宗教で信じられているようです。キリスト教も例外ではありません。死は何によってもたらされたのでしょうか。死後、私たちはどうなるのでしょうか。

死の原因

人間は神に似せられた者として創造されました。その最初の人がアダムです。神はアダムが住んでいるエデンの園で、アダムに必要なものすべてを与えます。

さらに神は大切な命令をアダムに与えます。「知識の木からは食べてはいけない。食べると死んでしまう」と。しかし、アダムは「食べてはいけない」と言われていた知識の木の実を食べてしまうのです。この結果が人間の死になったのです。人類はどんな形にせよ、途中でどんな変化を遂げたにせよ、すべてアダムの子孫ですから、アダムの罪の報酬として死がすべての人々に来るのです。

死の結果

人間は死を恐れます。市は人生の中で一番悲しい事でしょう。それを止める事は誰にもできません。万人に死は訪れます。ダーウィン的な考え方で言えば、死はその人にとってすべての終わりです。死人はこの世に存在しません。歴史の一部になるだけです。そしていずれ忘れられてしまうのです。人類がこの世に来てからいったいどれくらいの人が死んだのでしょうか。歴史上の名を残すような著名人以外は、記録さえありません。その著名人の歴史さえ調べないとわかりません。過去の人は過去として、人々の記憶から消えていくのです。

死後の世界はどんなでしょうか。死後の世界または死後の状態について聖書は明確に語っていませんので、はっきりしたことを説明するのは控えさせていただきます。カトリック教会では煉獄(生きている間、小罪のための償いをせずに死んでしまった魂が行く場所)を教えていますが、聖書的な根拠はありません。

ただ一つはっきりしていることがあります。それは神の裁きがあるということです。

また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように(へブル9章27節)

死後の裁きをキリストは次のたとえ話で説明しています。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16章19節ー31節)

しかし、この裁きは最終的な裁きではありません。イエス・キリストが再臨される時には、すべての人々、全人類(つまりその時生きている人たち、死んでしまった人たち)が裁かれると書かれています。死んだ人たちの中で、善を行った者は命を受けるために復活し、悪を行った者は地獄の裁きを受けるために復活するのです。

 

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