旧約聖書における戦争

 

聖書は戦争を肯定しているのでしょうか。事実、神はカナンの人々を皆殺しにしなさいと命令しています。

「クリスチャンは『神は愛である』と言っているのに、なぜ旧約聖書では戦争が肯定されているのでしょうか」とクリスチャンではない方からよく聞かれます。実は、多くのクリスチャンの方々もこの問題について何となく疑問に思っているのではないでしょうか。戦争は、神の命令に従ってイスラエルの人々がカナンの地を奪い取るという形で記されています。また、イスラエルの人々が戦ったその他の戦争も記されています。では、なぜ神はイスラエルの人々にカナンの地を略奪しなさいと命じたのでしょうか。この疑問についてちょっとつっこんで考えてみましょう。戦争の存在を聖書から認めたので、戦争の存在理由も聖書から議論していきます。最初に次の聖句を読んでみましょう。

神は、アブラハムの子孫であるイスラエルの民が400年間エジプトで奴隷となりその後、アモン人(カナンに住んでいた人々)の罪が満たされた時に、カナンの地に移り住むことを預言します。さらにカナンの地に行き、イスラエルの人々がその人々を追い出す理由を説明しています。

あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。 (申命記9章4節ー5節)

イスラエルの民はカナンの罪を裁くために主なる神が使われた器でした。そのために神はカナンの人々を容赦なく滅ぼしたのです。罪に関する限り、神はえこひいきはしません。神はイスラエルの人々も彼らの罪ゆえに同様に裁かれました。イスラエルの首都、エルサレムは略奪され人々は滅ぼされました。(2列王記24章2節ー4節)

私の結論は次のようになります。

  1. 聖書は神の権威によって行われる戦争を肯定している。神は、戦争という悪を通して人々を裁くことがある。
  2. しかし、旧約の時代も新約の時代も神の民が、自分の判断で武力行使をした場合は逆に罰せられる。
  3. 「罪の報酬は死である」この原則は聖書全体を通して教えられている事です。肉体的な命は、私たちにとっては大切です。かつて「命は地球よりも重い」と言われたくらいです。しかし、神の目からは命そのものよりも、命の使い方の方がもっと大切である。

奇しくも8月15日は終戦記念日です。多くの場所で平和が叫ばれます。もちろん、クリスチャンは武力に対して仕返しはしません。無抵抗でいるべきです。しかし、残念ながら人間がこの地にいる限り戦争は終わることはないでしょう。人間の力や政治で平和をもたらすことは不可能です。クリスチャンを含めて多くの方々が、人間の知恵や力で戦争をなくせると考えているのは、私には愚の骨頂にしか思えません。罪人である私たち人間がこの地上に住んでいる以上、争いごとはなくならない、戦争がなくなることはないのです。

主なる神は、人間の悪を用いて悪を裁く時があります。どの戦争が単なる人間のわざであり、どの戦争に神が関わっているかははっきり言えません。ただ、ハッキリいえることは、神はこの世における人間の邪悪な罪に対してどんな方法にせよ裁きを行われることです。戦争という手段がその一つであるということです。

あわせて読みたい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。