新約聖書の矛盾

聖書の中に間違いや矛盾と指摘される中には、はっきりと矛盾とわかる個所は、聖書のページ数を考えれば指摘されるほど多くはありません。日本には全国紙と呼ばれる新聞がいくつかありますが、その新聞各社が事件や世界の出来事を報道します。しかし、それらの新聞各社は同じようなことばを使い、まったく同じ内容の記事は書かないでしょう。正確さが要求される新聞報道でさえそれぐらいの事はあるのです。

そこでここでは、はっきりと「違い」がわかる個所を取り上げてみます。マタイの福音書4章1節ー11節を読みます。

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

ルカ4章1節ー13節を読みます。

4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

ここで取り上げる個所ははっきりと2つの記録には「違い」があるとわかる個所です。双方の記録も同じ出来事について記録していると思われます。しかし注意深く読んでみますと、イエス・キリストの誘惑の順序が違いますし、悪魔がイエス・キリストに言っていることばも多少違います。

マタイ4章1節ー11節 「この石がパンになるように命じなさい」—>「下に身を投げてみなさい」—>「私をひれ伏して拝むなら」
ルカ4章1節ー13節 「この石に、パンになれと言いつけなさい」—>「私を拝むなら」—>「ここから飛び降りなさい」

さてこれらの2つの聖句を読んで2つの率直な疑問が湧いてきます。1つの疑問は「マタイの記録とルカの記録になぜ矛盾があるの」という疑問です。2つめの疑問は、「どちらの順序が正しいのかな」という疑問です。翻訳の問題かもしれませんので、私自身、この個所が書かれている原語(ギリシャ語)から訳してみました。原語から見ても上記の翻訳は適当かと思われます。

聖書学の専門的なことはここでは省きます。しかし少なくとも次の2つの事が考えられます。

  • 1世紀の歴史家は正確な年代順や物事の順序について、現代科学や歴史学ほど重要だと思っていませんでした。聖書の著者も例外ではありません。ですから、このような文化背景を考える時、これは矛盾とは言えません。
  • 「、、、、、」の中のことばは要約です。現代でも同じ事が言えるでしょう。新聞記者は政府関係の人物や経済界の人物が言ったことを一字一句間違いなく記録する事が求められます。それがいつもいつも可能だとは限らないのも事実でしょう。新聞報道にも編集者の解釈が入ります。正確さが求められる現代でもこのような状態です。聖書の中に違いがあったとしてもそれを矛盾や間違いだと解釈するのは不適切だと私は考えます。

聖書を読んでいて、「おや?おかしいぞ!矛盾があると」と思ったら、私は良いことだと考えています。聖書をそれだけ詳しく学ぶことは信仰への第一歩だと思うからです。

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