教会の概念

教会の概念

教会の概念は何でしょうか。教会に行く意味は何でしょうか。教会は建物を指しているのではありません。教会とはクリスチャンの集まりであり共同体です。このページでは教会の概念を説明します。

 

キリストのからだ

「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。1コリント12章14節ー22節を読みます。この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い表しています。つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なのです。 世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。 そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持ち方、同じ態度を持っているのです。 さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」 と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられました。ヨハネ13章34節ー35節を読みます。イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。 お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです(コロサイ3:12-13)。

神を愛し隣人を愛す人々としての教会

先に愛については既に触れました。しかし、神の愛、隣人愛は教会の特質として欠かすことが出来ません。 そこで、もう一度愛について考えてみましょう。教会の人々は、神を愛し、隣人を愛す人々です。 イエスは何が一番大切かと質問された時に、一番大切なことは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛す」こと」だと答えました。 愛といいますとロマンチックな愛を考えがちですが、これがキリストが言う愛ではありません。教会の人々は、すべての能力、つまり心(純真な思いや願い)、思い(感情や感覚)、知性(理論的な考え)、力(理知的な力と意志や肉体的な力)を尽くして愛すことを求められます。 神の教えを理解し、心からその教えに従うことです。時には、理知的な力と意志や肉体的な力も必要でしょう。

さらに、「人は自分自身のように隣人を愛すべきだ」とイエスは言います。 このことは自分自身も愛すことを裏付けています。これは、自分中心的な愛ではありません。 むしろ、自分自身への愛は、神によって創造された確信と、神によって愛されているという確信からくるものです。 同じ理由で、神によって創造された隣人を愛します。横の関係(隣人、他の人との関係)をしっかり保つことは、教会にとって非常に重要です。縦の関係(神との関係)と同じくらい重要なのです。クリスチャンの中には教会に幻滅を感じて、教会での礼拝に出席しなくなってしまっている人は少なくありません。教会内での人間関係が問題があったり、牧師との人間関係が問題であったりしまs。健全な教会では、このような人間関係も解決できるものです。

 

神の契約による共同体

教会は、神と契約を結んだ人々の共同体です。イエスの死と復活を信じ悔い改めてバプテスマを受けた者は、神によって契約を与えられます。罪の赦しと聖霊を神の賜物として受けイエス・キリストの弟子として生きていく契約です。 バプテスマは、言わば神と礼拝者が契約を交わす結婚式のようなものです。 神がこれを認めてその人と契約を結ぶのです。その契約の証印が聖霊なのです(エペソ1:13)。

使徒行伝2章42節には、1世紀のクリスチャンたちが、「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」と書かれています。 クリスチャンとして3つの重要なことを行なっていました。(1)使徒たちの教え、新約聖書で書かれている事を忠実に守ることです。 教会の人々は、イエスに忠実に従う人々です。主の契約に預かる人は神の教えを学び、日々その教えに従って生きていきます。 (2)神に祈ることです。天地万物を創造した神がすべてを支配していることを信じ、その神の栄光が輝き、神の教えが教会内で実践され、またより多くの人々が神を知るように祈るのです。 (3)パンを裂くとは、主の晩餐を受けることを指しています。

主の晩餐は主イエス・キリストが復活された週の初めの日(日曜日)に、主の復活を覚えてクリスチャンが受けるものです。クリスチャンは、主の晩餐のパンを受ける時、イエス・キリストの教えを思い起こし自分がキリストの弟子であることを改めて認識する時です。イエス・キリストのからだである教会を覚え、他のクリスチャンのためにも祈り人間関係を吟味する時です。また、晩餐のぶどうの実のジュースを飲む時、 クリスチャンは神の救いの業と慈悲を思い起こし、自分自身の罪を告白をして、神との契約を感謝をもって受けいれるのです。

このように、教会とは罪ある者が悔い改め、イエスの名によるバプテスマをうけて神の子供とされる人々の集まりです。 そして、聖霊で満たされたクリスチャンたちが、神を唯一の神とあがめ、神の国民とされた人たちの集まりが教会です。そこには神の御国、神の支配、神の権威があるのです。 神の権威がなければ、教会自体に権威はありません。ですから、人間によって作られた伝統や規則などはない、神が招いた人々の集まりが教会なのです。 もし規則、決まりがあるとすれば、神が制定したものだけです。

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