イエス・キリストを信じる

イエス・キリストを信じる

イエス・キリストを信じるとはどのような意味でしょうか。イエスのことばを聞いてみましょう。ヨハネ14章1節ー6節を読んでみましょう。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。・・・わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

イエスはまず「心を騒がしてはなりません」と諭します。心が騒ぐところには、迷いもあり恐怖もあります。それは人間として当然持ってあるべきものです。しかし、神を信じることとイエスを信じることについては、心を騒がすことは無用です。ちょうど、それは健全な親子関係に似ています。子供は親を信頼して、多少疑問があっても言われたことをきちんとやります。

キリスト教はイエスのことばを信じることから始まるのです。聖書を読んでイエスを本当に知った方にとって、これはやさしいことです。私の子供が私を信じたようにやさしいことなのです。 イエスは誰も裏切りませんし、だましたりもしません。嘘も言いません。真実だけを語ります。そのような方を信じることはたやすいことです。

キリストを信じるということは、同時に神を信じる事にもつながります。神を信じクリスチャンになるには、2つの門があるようです。一つは、アフリカの人々のように、現地の宗教において、天地万物が神または神々によって造られたという概念をもっている場合です。その場合、聖書が教える創造主なる神を信じるのはそれほど難しいことではありません。そして、イエス・キリストを信じるのです。

ところが、私の場合は「神などまったくいない」と考えていましたから創世記など最初から読む気などありませんでした。お伽話であり神話に過ぎないと考えていたからです。だから、私は新約聖書から読み始めました。特にヨハネの福音書を何度も読み返しました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。・・・わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」を何度も読みました。この言葉を読むたびに、キリストから挑戦状を突き付けられているような気がしたものです。

最終的に、私は主イエス・キリストに白旗をあげて降参したのです。私の場合、イエス・キリストを先に信じて、神を信じたという順番です。

イエス・キリストから学ぶ

ここで最後のまとめとして、イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか、マタイ11章28節ー29節を読んで考えてみましょう。キリストは次のように言っています。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11章28節ー30節)

この世で生きている限り、私たちは罪ゆえに多くの重荷を負っています。時としてそれらの重荷は、耐え切れない重荷のように思える時があります。自分で自分を苦しませている重荷があります。そして生活に疲れ果ててしまうのです。毎日の通勤電車を見ればわかります。 通勤者の目がつかれています。急いではいますが、さっそうと歩いている人はほとんどいません。そんな私たちにイエスが呼びかけています。これはイエスの招待状です。イエスが私たちに心の安らぎを与えてくれるというのです。つまりイエスは、私たちの心の苦しみや人生の重荷を軽くしてくれる救い主なのです。

救い主としてイエス・キリストを受け入れこの方に委ねる心を持つ。この方が安らぎと平安を与えてくれると信じることです。これが第一のイエスを信じるという意味です。

次に第二の信じる意味として、私たち人間はイエスから学ぶ必要があります。イエスは人生における先生であり師です。人生の意味、人生の目的を教えてくれる人生の先生です。どのように生きるべきかを教えてくれる師であり主です。この人生において必要な物すべてを与えてくださる創造主なる神です。その方に日々学び、祈り、御心を求めるのです。私たちはイエスの弟子なのです。主イエス・キリストが先生であり、私たちが弟子になる。これが第二のイエスを信じるという意味です。

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