ヨハネの福音書1章1節ー14節

ヨハネの福音書1章1節ー4節 命の光

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1章1節ー14節)

もう何年も前のこと。ある著名な作家がラジオでの「子供電話相談室」で「蚕はなぜ桑の葉しか食べないのですか」という質問に次のように答えていた。「それはね、ちょうどパンダが笹の葉しか食べないのと同じでね、そのように造られているんだよ。」 無論、この作家はクリスチャンではない。しかし、そのようにしか説明できないのも事実であろう。子供たちへの答えが終わった後、ある別の回答者が「蚕は桑の葉で出来ているんでしょう」と言った。それに反応して「それはたとえという意味ですよね」とアナウンサーが答えた。「いやそうではない」とその生物学者はおお真面目に反論した。「蚕は桑の葉を食べてたんぱく質、脂肪、糖といった各栄養素に変えていく仕組みを体の中に持っているんだよ。だから蚕は桑の葉で造られていると言っても科学的にいいんですよ。」このラジオ番組に出ていた方々は、おそらくクリスチャンではないだろう。しかし、私たちの周りの自然を観察すると、神の創造でしか説明できないのである。

上記の聖句には、「言(ことば)」と創造、命、この世の人々との関係が書き記されている。三位一体の神は天地万物すべてを創造された。言(ことば)はそのすべての創造の過程において父なる神と共にいた方である。「言」によって人にいのちが与えられる。「言」によって神の子供としての特権を与えられる。「言」であるこの方は、人となられキリストとして、イスラエルの民に現れ神の御心を教えたが、この方を信じなかった。彼の親兄弟でさえ信じなかった。

人は神の創造を認めても神ご自身を認めようとしない。この方にいのちがある事も知らない。むしろ、人は自分の能力でいのちを発見しようとしている。人は暗闇の中にいる事さえ知らないのである。だからこそ、私たちは光が必要だ。光が照らされるまで、私たちは、その暗闇がどんなに暗いかを知らない。だから私たちは、「神よ、私たち一人一人に光を照らしてください」と心から祈る必要がある。

スポーツ選手の中に、肉体改造といって自分の体を鍛えなおして、別人のように強くなった、生まれ変わったと聞く事がある。しかし、悲しいかな、その肉体もいずれはまた衰える。本来、生まれ変わるとは神によってなされるものである。人間の意志で出来るものではない。いずれ衰える肉体を鍛えて生まれ変わったとは言えまい。心が生まれ変わらずに何になろうか。明るい方へ、光がある方へ歩いて行こう。主イエスとともに歩いて行こう。そこに力の源があるから。

ヨハネの福音書は、主イエスを信じる意味、主イエスによって生まれる意味を切々と私たちに語り続けてくる。このいのちのことばを心から聞ける耳を持ちたいものだ。「聞く耳のある者は聞きなさい」と主イエスは私たちに問いかけているから。

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