宗教は弱い人のためにあるのか

「宗教は弱い人のためにあるのではないか」と言われたことがあります。はたしてキリスト教の場合はどうでしょうか。弱い人はキリスト教に向いているのでしょうか。

戦後70年近く、様々な宗教団体が活動を行なってきました。 その中には社会問題になった団体がある事は周知の事実です。日本人は宗教的なアレルギーを持っている事実はよく指摘される事です。 100%信じて初詣やお宮参りに行ったりする人は少ないでしょう。これらの宗教的な行いは日本人の文化の一部として根づいているものですし、 習慣のようなものです。

日本人が宗教に入る理由

宗教的なアレルギーにもかかわらず、それでも数多くの人たちが新興宗教に走るのはなぜでしょうか。

まず、第一の理由は入信する人たちは何か心に満たされないものが人生にあり、それを満たされたいと宗教団体に入るのでしょう。 「この宗教ならば満たしてくれるに違いない」とか「この人を信じれば大丈夫だ」と思い入信するようです。 人間、誰もが持っている幸福願望のために宗教に入るのではないでしょうか。

第二の理由は恐れです。地獄に行くのが恐いからとか、 死後の世界での裁きが恐いからと言う理由で、宗教団体に参加する人がいます。第三の理由は、この世で生きている間に物質的に恵まれたい と思い宗教に走る人がいます。日本のほとんどの宗教は御利益宗教です。信じれば何か良い事がある、また御布施をすればもっと恵まれる と言ったものです。つまりGive And Takeの関係なわけです。

宗教に入る人は弱いのか

これらの人は弱いのでしょうか。人間は元々弱いものです。それを弱いと言うのもおかしいのかもしれません。自分ひとりで生きていく事は出来ないのが人間です。自分を信じれば何でも出来ると言っている人でも、実は何らかの形で他の人にお世話になっています。常に何かに頼って生きているのが人間です。子供の頃は親兄弟に頼って育っていきます。大人になれば会社と言う組織に頼って生きていきます。家族に頼って生きていきます。持ちつ持たれつです。宗教に頼るのはこのような例に過ぎませんが、キリスト教には違った側面があります。

キリスト教の場合

では、キリスト教の場合はどうでしょう。私はイエス・キリストを信じる事は、宗教ではないと思っています。人間のあるべき姿をイエス・キリストは教えています。宗教は人間の心を満たそうとして人間によって作られたシステムです。その意味ではキリストの教えは宗教ではありません。 既存のキリスト教と呼ばれるものも人間の手が加えられ、人間が作った組織や規則があり、人間を縛り付けています。

私が言うキリストの教えとは、この様な既存のキリスト教を指してはいません。むしろ、聖書で述べられているキリストの教えを指しています。 そこで「宗教に走る人は弱い人ではないでしょうか」と言う質問をキリストを信じる事に当てはめて聖書に基づいて考えてみましょう。

聖書は次の様に神様の御前でへりくだりなさいと教えています。

 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(1ペトロの手紙5:6-7)

神の力強い御手の下で自分を低くするとは、自分の罪、弱さ、欠点を認め神に委ねるという意味です。実は自分の罪、弱さ、欠点を認める事はたやすいことではありません。虚勢をはって自分には何の弱みはないと多くの人はいいます。しかし、実際は人間誰でも弱み、欠点は持っています。悪いこと、つまり聖書でいう罪も犯します。それをないかのようにする事自体、自分を偽っていることです。実は自分の弱み、欠点、罪を認める事は勇気がいることです。本当はこのような人が強いのです。 また、聖書は自分を捨て日々十字架を負いなさいと教えています。次のイエス・キリストのことばを読んでみましょう。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。(ルカの福音書9章23節-25節)

自分を捨てるとは、自我を捨てるということです。十字架を負うとは自分自身に対しての死を意味しています。今まで自分中心に生きてきたかもしれませんが、それを変えて神様の教えに従って生きていくと言う姿勢です。このような人は果たして弱い人でしょうか。自分の欲を捨て他の人を思いやれる人は弱い人でしょうか。私はそうは思いません。そのような人こそ勇気ある強い人です。しかし、その強さは自分自身が持っているものではありません。

「なぜなら私が弱いときにこそ、強いからです。」(2コリントの手紙12:10)

これはどのような意味なのでしょうか。弱いときこそ強いというようなことはあるのでしょうか。ちょっと矛盾したことばですね。ところがこれは真実なのです。自分が弱いと認めて初めて神の強さが宿るのです。自分の欠点や弱さを認めることは非常に勇気がいることです。なぜならそこから自分が無防備になるからです。プライドも傷つきます。この世の中はよく弱肉強食の世界だと言われますが、このような世界では自分の弱さや欠点を見せることは自分自身に対して損になるばかりか、敵がのさばる絶好の機会を与えてしまいます。ところが神と私たちの関係はそのようなものではありません。自分が弱いもの、罪あるものだと認め初めて神が働いてくださる信頼関係にあるのです。自分が強がって何の助けも要らないと言っている人たちを神は助けることは出来るでしょうか。答えは簡単です。出来ません。

神を信頼している人は次の様なことばを堂々と言えるのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)このような人は弱いのでしょうか。神を信じることは弱さの表れでしょうか。いや答えはまったくの逆です。神を信じる人こそ強い人です。なぜなら神がその人の内で働いてくださるからです。

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