キリストは人を自由にする

良い意味でも悪い意味でも「宗教は人を束縛する」というのが一般的なイメージでしょうか。良い意味では、たとえば仏教の修行僧の生活のサイクルは、修行の規律に従って確かに行われているようです。朝早くから境内の掃除をしたり朝食を作ったり、その後はお経を唱えたり、修行僧たちは一日中忙しいそうです。しかし、どちらかというとこの表現はネガティヴな意味で使われることの方が多いと思います。キリスト教に対する一般的な見方も変わりはないでしょう。だから教会の敷居も高くなってしまうのでしょう。

キリストの教えには、信者(クリスチャン)を縛り付けるようなことは100%ありません。もしあるとすれば、既存のキリスト教や人間が作ってしまった規則が信者を縛り付けてしまっているのです。教会とは本来、出入り自由な場所だと私は思います。教会の礼拝に出席して他のクリスチャンと交流を持つ、持たないは教会によって決められるべきことはではないです。人間が作ってしまっている規則がもしクリスチャンを束縛するようなことがあれば、それは100%誤りであると言わなければなりません。

キリストの教えは、人を縛り付けるのではなく人を自由にするのです。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8・31-32)

われわれ人間は、様々なことで自分を縛り付けていることがあります。たとえば私たちは、人間関係、親子関係、子育て、仕事のプレッシャー、財政的な事など悩むことがあります。悩みの種は尽きないでしょう。このような事で悩んでいる時、私たちの心はその悩みによって縛り付けられているのです。その悩みから逃れるためにアルコールや麻薬に頼る人もいます。しかし、キリストはこのような束縛から私たちを解放してくれるのです。

宗教は確かに人を束縛しますが、キリストの教えは宗教ではないと思います。キリストを信じる事も宗教ではありませなん。むしろ人間のあるべき姿だと私は思います。もし教会の敷居が高いと思われる方がいれば、自分自身で聖書を読み始めたらいかがでしょうか。キリストの教えに耳を傾けたらどうでしょうか。さらに良い教会、キリストの霊が宿る教会に行けるように行けるように祈りましょう。きっと見つかるはずです。

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