信仰の本質

信仰の定義についてはすでに述べました。では、その信仰の本質をもう少し掘り下げてみましょう。マルコ12章29節ー30節を読みましょう。

12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

イエスは、ユダヤ人との問答の中で一番大切な教えは「心を尽くし、……あなたの神である主を愛せよ」と言っています。この場合、 「神を愛す」とは「神を信じる」という意味を含んでいると考えて良いでしょう。なぜなら、神を信じていなければ、神を愛すことは出来ないからです。また、逆も真なりで神を愛していなければ本当に信じているとは言えません。

そこで、「愛せよ」ということばを「信じる」ということばに置き換えて考え、信仰の本質を考えてみましょう。 心、思い、知性、力とそれぞれ日本語に訳されていますが、新約聖書が書かれたギリシャ語の意味と多少ニュアンスが違います。そのため、その原語から意味を判断するのが適当でしょう。心(kardia)と思い(psuche)は感情という意味で重なる部分がありますが、ここでは区別して考えてみましょう。人は物事を思考したり善悪を判断する意志を与えらました。それは、心(kardia)によって行なうのです。心(kardia)を尽くして信じるとは、よく考えて自分の意志で信じるということです。思い(psuche)とは魂や人生と訳されることばです。特に自身の感情を表しています。思い(psuche)を尽くして信じるとは、誠心誠意の熱い思いと感情をもって信じるという事です。そして知性(dainoia)とは、物事を知識として蓄える能力を指しています。つまり、イエス・キリストが父なる神の子である事、イエス・キリストがあなたの罪のために死んだという事、これらの事実を受け入れて神を信じるのです。最後に、力(ischuo)を尽くして信じるとは、自分自身が持っているすべての力、つまり内面的な力、肉体的な力などすべてによって神を信じるという事です。このように考えてみますと、信仰とは、人が与えられているすべての資質(意志、感情、知性、肉体的な精神的な力)によって神を信頼する事を指しています。

聖書的視点ー信じる

スコットランドのグラスゴーグリンで伝道集会で一人の人が立ち上がり、「私は天国も地獄も神も、またキリストを見たことがありませんので、私は信じません。」と叫んだ。ところが他の人が立ち上がり、「皆さん、皆さんのそばをクラウド川が流れ、岸辺には草や木が生えていると私に教えてくれました。しかし、私は生まれつきの盲人でそんなものは何一つ見えません。私にとっては、そんなものには無に等しく信じられないものなのです。しかしここにあることは事実でしょう。それから不信仰者にむかうと、「あなたは話せば話すほど自分の無知を表しています。あなたは霊的に盲人で、何も見えないのです」と言い聞かせた。(キリスト教例話事典2-259)
非常に考えさせる話です。主キリストは、心が迷い騒いでいる私たち人間に次のように言っています。

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9章39節ー41節)

キリストの言葉に耳を傾けてみましょう。徐々に道が開け心の重荷がとれていくでしょう。自分の力で真実を知ろうとするのではなくて、神の力によって私たちの心の目が開かれますように。