信仰の定義

神の存在は被造物をとおして明らかですし、人は神を唯一の神として信じるべきです。しかし、それでも、多くの人たちが頑固にも信じません。「信じる」ことを聖書的なことばで言うと信仰です。見るから信じるのでは、イエスが教えている信仰とは言えません。では信じること(信仰)とは、どういうことなのか考えてみましょう。ヘブル11章1節ー6節を読んでみましょう。

11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。・・・11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

信仰の定義は、聖書が書かれた数千年も前から変わっていません。この聖句が書かれたのも2000年ほど前ですが、あえてこのように著者が書いたのには理由があります。次の聖句を読んでみましょう。

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20章24節ー29節)

1世紀の時代の人たちも、目で見なければ信じなかったのです。 十字架における死から復活した後、イエスは弟子たちと話しをしていました。しかし、トマスという弟子だけが、復活したイエスと会っていなかったのです。その人は、復活したイエスを見るまでは信じないと頑なに言い張りました。それに対してキリストは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と答えました。私たち21世紀に生きる者たちにも当てはまる言葉です。

神を見たら・・・信じる?

よく聞くことばに「神を見ることは出来ないから信じない」と言う人がいます。 私もそのような一人でした。神の存在など信じていませんでした。自分自身が神であったのを覚えています。聖書は科学的見地から信じられないという方もいます。(聖書と進化論を参照)または、キリスト教は単なる西洋の宗教だから・・・宗教なんて何でも同じだからある特定の宗教を信じても無駄と考える人もいます。

それでは、わたしはなぜ信じるようになったのでしょうか。それは、イエスの言葉を吟味した時に、この方が言っていることは真実に違いないと確信を持てたのです。イエスは、神の存在を認めておられ、しかも彼自身が神から遣わせられたと言っているのです。(イエス・キリスト?を参照) 私はこの方を信じたのです。ですから神も信じることが出来たのです。さらに神の存在、知恵は神が創造した自然からも読み取ることも出来ます。(神の創造にビックリを参照)

私の友人は大学在学中、生物学と化学を学び「神がいないことを科学の力で証明することが僕の人生の目標だよ」と息巻いていました。 (今でも生物学の研究を続けて博士課程を終えたところです。)その人が、私に「神の存在を物理的に証明してみてくれ。そうしたら信じるから」と言い続けていたのを昨日のように覚えています。 しかし、約1年間聖書を学んだ結果、彼は遂にイエスを信じクリスチャンになったのです。 さらに生物学を学ぶにつれて彼の確信は強められ、天地万物の存在は偶然ではなく、デザイナーなる創造主なる神様の手によるものであると学者の立場から信じているのです。

信仰と神に従うこと

神を信じる人は、信仰によって神の教えに従います。信仰によって人は、神に委ねて心からその教えに従うのです。たとえ、時にそれが無意味に思えることでも未来について何もわからなくても、人は信仰によって神の教えに従うのです。 これが信仰の実と言えるものでしょう。ただ単に、神の存在を事実として信じることは、「鈴木さんは東京生まれです」というような事を信じているようなものです。これは知性だけの信仰です。そこには、信仰の実がありません。 クリスチャンは心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、その人が与えられているすべての資質によって神を信じるのです。 そこには、神が必ず報いてくださるという神への信頼が必ずあります。