十字架と罪の関係

キリストの十字架

クリスチャンではない人にとって一番不可解なのは、イエス・キリストが十字架につけられたことではないでしょうか。このページではキリストの十字架について解説します。十字架はキリスト教のシンボルですが、シンボル以上にもっと重要な意味がキリストの十字架にはあります。まずは1コリント1章18節から読んでみましょう。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(1コリント1章18節ー31節)

この聖句が証言しているように、十字架の言葉、つまりキリストが十字架につけられた事実は、信じていない人々には無意味なことでしょう。むしろ愚かにも聞こえるのです。自称、神の子である方が十字架につけられるなんて、馬鹿げていると思える人もいるでしょう。なぜ?という疑問がわいてきます。

国家の法律でも人を殺せば、(刑罰が軽減されますが)死罪に値します。しかし、神であるキリストは、殺人という罪を実際に命を取り去るという意味ではなくて、人の心を傷つけるだけでも死罪に値すると教えています。

 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5章21節ー22節)

この教えは旧約聖書では教えられていませんが、本来の律法の意味だったと思われます。人の心を少し傷つけるだけなら、小さな罪だと私たち人間は考えます。なぜならきっと日常茶飯事のように犯している罪だからです。しかし、神の御心に罪に大きいも小さいもありません。人間にとって小さい罪に思える罪であっても、すべて死罪に値するのです。

私たち罪を犯す者は死をもって償わなければなりません。しかし、キリストが私たちの代わりに死んだゆえに創造主なる神の赦しを頂いているのです。キリストはこの死によって神に仕える、人に仕えることをわたしたちに教えてくれたのです。偉大な犠牲の精神、無条件の愛を与えてくださったのです。この世の知恵者は、十字架の愚かさゆえにキリストを信じることが出来ません。偉大な宗教家としてこの世を治めるのではなく、人を愛するとはどんなことなのか?を身をもってわたしたち人間に教えてくれています。

私たち人間に元々誇れるものなどありません。知恵も地位さえも創造主なる神から憐れみと共に頂いているのに過ぎないのに、あたかもそれが自分の力かのように思ってしまう人間の愚かさがあるのではないでしょうか。あなたもキリストの十字架を信じてみませんか。

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